Architect

空感・時感・質感

住宅特集08年8月

建築金物や部品のことを人の行為や感触などから考えてみる。
あまりにも多様な物や概念に織り込まれている建築も、人にその空間や物体が認識されるには、身体というただ一つの接点しか必要としないからだ。
もちろんその身体は建築のリトラシーを持っていて、受け取られる建築も人の行為や身体性に叶う内容を持っていることが前提である。
しかしここで書きたいと思っていることはその体系やリトラシーについてではない。
ただ「建築の体験」というプラグマティックな現場を通して感じられる建築の豊かさや
すばらしさ、あるいは貧しさやつまらなさ、が僕たちの身体や生活、つまり僕たちの人生の質に大きく影響を与えるものだということを伝えたいだけなのである。
恐らくそれは建築の質や文化などとも分かちがたく結びついているのは間違いないと僕は考えている。
今回は建築金物と呼ばれる、ある種の建築部品を扱う特集である。
現実的にも行為や身体と建築の接点に多く現れるのが建築金物でもある。
ここでは、あえて金物そのものではなく、行為と関連する一連の部品、物やその働きを通して体験される空間や時間、あるいは視覚や触感の質について考えてみたいと思う。従って金物、あるいは関連する建築の部品を物として考察することはしないが、タッチや作動感などのことについては触れたいと思う。
タイトルに用いた空感と時感は体験された空間と時間、を表したつもりの造語である。
もちろんG・ギーディオンの大著「空間・時間・建築」に掛けている。
建築に変わる、「質感」は文字通り、とは言え「質」とは多様な言葉である。
昨今脳科学で言われる「クオリア」の意味も含まれているようである。

 

 

建築金物の分類

 

建築金物について書くことを安請け合いしてからすぐに、僕は建築金物の何たるかをまるで知らないことに気付くはめになった。
ドアノブやレバーハンドル、ヒンジや引き手の類は、いつも目先の現場で施工される具体的な物で、建築を考える上での対象物であったためしがなかったからである。いったい建築金物とはなんだろう?
まず事務所にある最もありふれたメーカーの分厚いカタログをぱらぱらと見てみた。逼迫した現場で見るときと違い、見知った多くの金物に混じって奇妙な物もずいぶんとあることに気づく。かなもの「金属製の器具」という広辞苑の簡潔な命題に背いてプラスティックやセラミック、木製の引き手なども建築金物のカタログには載っている。
それも当然、建築はあり合わせの物と技術で出来ている。ブリコラージュとも言われる所以である。だから定義から出発しても何も始まらない。建築金物は金属に限らない一般的な建築部品の一部のようなのである。
カタログに載せられた膨大な物品を、目次や分類は見ずに、僕の思いつく建築との関わりで大まかに分類してみた。
見ていると「建築金物」とは人が建築の一部に対してなにがしかの行為を仕掛けるときの直接的な手掛かりや、その行為をより簡単安全に補助する部材が多く見受けられることに気づく。扉や引き出しの開け閉めや、階段の上り下りなど建築に関わる人の行為は多い。
そのような物と行為を直接結ぶインターフェイス部品系、を第一のカテゴリーとして良さそうだ。そして次には、人が直接的に使う物や道具と建築とのアプリケーション部品が目立つ。
コートや帽子掛け、タオル掛けなどの類である。
建築での人の行為の間接的な補助部品系を第二のカテゴリーとしてみよう。
人の行為を媒体にすると建築金物と言われるものの多くの部分はすくい上げることが出来るように思えるが、設備の吹き出し口や電気のスイッチプレートのような部品は少し意味が異なる。人の直接的な行為に関わるのではなく、意匠空間内での操作と効果の為の設備部品系とも言えるものだからだ。
それらを第三のカテゴリーとする。
金物のカタログには現れないが、意匠的な場所に現れる設備の器具そのものはどうなのだろう?
照明器具や水栓器具、あるいは冷暖房器具は、以前は建築意匠と分かちがたく結び付くこともあり、ボーダーライン上の金物と言えたかもしれない。しかし設備製品の商品化が著しく進んだ現代には、とりあえず建築金物の仲間に入れないことが無難なようだ。
しかし、もちろんそれらは建築という総合的な範疇の一部であることに変わりはない。
三番目のカテゴリーを意匠空間内と括ったが、簡単に言えば見えがかりの、つまり建築物を普通に使用していて見える部分の、と置き換えられる。
「見る」という特化された人の行為に重ねて使用される部品と考えてよい。
そのような部品の中には、操作や効果を伴わない純粋に視覚的な納まりの為の部品がある。
ジョイナー金物や回り縁、手摺り子脚部のカバープレートなどがこれにあたる。ガラス棚の支持材のような見せる構造体もその範疇に入るだろう。視覚以外の行為と直接関連しないそれらを見え掛かり部品系として4番目のカテゴリーとしよう。
第一第二のカテゴリーも見える物なので「ヴィジュアル」がつきまとうのはあたりまえであるが、動きや操作、設備機械の作動などそれ以上の内容をもつので身体や行為を通しての分類では別枠としている。
その他にも建築金物として扱われる建築部品は数多くある、例えば郵便受けだが、郵便という社会システムと密接に結びついている。祝日に日の丸を立てるための金物もその類である。
点字ブロックや表札まで含めたサイン部品も様々な社会規範と関連した部品であるように思える。
また、建築の見え掛かり以外の部分、つまり床壁天井の内部、躯体内部にも数多くの金物が使われている。仮設まで含めればその数は更に増える。
空間の背後で見えない部分もまた、生産や工法、技術や工学などの社会規範へと広がって行くのである。
それらすべてを含めて考えることは止めたい。むしろ積極的に止める。
身体や行為という等身大の視点から、つまり空間の「内側」から建築という物の体系を考えてみるというのがここでの趣旨だからである。
従って5番目のカテゴリーはその他の金物である。

 

身体的行為と関わる建築金物のカテゴリー
1 身体的行為の直接的な手掛かり → インターフェイス部品系
例 ドアノブ、手摺り、ハンドル、つまみ、蝶番、レール、等
2 物や道具と建築とのアプリケーション → 補助部品系
例 タオル掛け、コート掛け、物干し金物 等
3 意匠空間内の設備部品またはその操作 → 設備部品系
例 空調吹き出し口、ガラリ、スイッチ、操作ボタン 等
4 露出した機能部品または建築納まり → 見え掛かり部品系
例 ガラス支持金物、手摺りステー、棚ステー、カバープレート 等
5 対社会的金物、工事、メンテナンス用など → その他の金物
例 郵便受け、旗竿立て、屋上丸環、構造金物、工事用金物、仮設金物 等

 

分類して何かを始める訳ではない。とりあえず外在する物の体系のような金物群を裏返して、使い手側から分けてみる手もあることを再確認したかったのだ。
その際に、ツマミという「物」には、転用を例外とすれば、「指をかけて引く場合に用いる」と、ある程度行為を限定してインデックスを付けることが出来るが、指でつまんで引く、
という行為に対してはツマミという部品だけが対応している訳ではない。
その他の理由もあり、部品ではなく部品系という分け方とした。

 

 

部品系

 

部品系について考えたい。例えば扉を開けるという行為に対して関与する部品はレバーハンドルだけではない。シリンダーやラッチの作動部、蝶番などがすべてそろって扉が開くのである。従って複数の部品の組み合わせによる部品系としたのである。レバーハンドルやドアノブと蝶番は見た目も違和感がないものにしたい、という意味では大事な見え掛かり部品でもある。当然「見た目」は重要な選択基準である。
しかし立派なハンドルが付いていても、丁判の作動が悪かったり、見るからに安っぽかったりすると良い質感は望めない。
補助部品系はまた少し意味合いが異なる。多分に意匠的なコーディネイトや関連付けが欲しい部品でもあるのでグループで考えたい、また、衣類や道具などの他のものと組み合わせて用いられる、という意味の部品系でもある。
設備部品はデザインやそのもののタッチも大事だが、設備的な効果や作動と直接関連してくるので操作部品だけを取り出して評価することは出来ない。
設備や建築の使い心地に組み込まれる部品系である。
見え掛かり部品系は、部品と言うよりむしろ材料のようなものだ。基本的に系になっていないと使えない。特殊な装飾金物はこの場合考えていない。

 

 

扉の作動感

 

今はどうなのかは知らないが、かつてのアメリカで自動車組み立てラインの最終チェックにドアの開閉音を聴く係がいた、と聞いたことがある。
聞いた当時は「音」にまで商品性を盛り込むのかとも思ったものだが、現在のように
ロボット化されておらず、人の手に頼っていた部品組み立ての精度を調べるには音や操作感といった最終結果を見る(聴く)のが手っ取り早かったのだろう。音や開閉感に違和感があれば、なにかしらの不具合が組み立て上にあったことが想像できるからだ。
恐らく今ではロボット化やCAM(コンピューターによる生産)化、部品精度の向上によるQCの中で「ドアの開閉音を聴く係」は職を失ったのではないだろうか。
開閉音にも現れる「しっかりと良くできた質感」が技術の結果なのか目的なのかは卵と
ニワトリのような関係でよく解らない。しかし高級車に大枚を払う人にとっての質感は、かなり納得できる要素であるらしい。
建築でもドアの開閉は使用上かなり重要な項目である。
しかも自動車などの工業製品と異なり、現場での組み立て率が高い。

 

扉の開閉感の善し悪しは何によって定められているのだろうか?
これがなかなか定められない原因の一つは僕たちの文化的背景にある。
「扉」という外来部品に対して、軽い引き戸を主な建具とする住宅の文化を持つ僕たちは今ひとつ判断基準を定めかねているのだ。
質感の善し悪しは別として、西洋の一般的な建築物の扉には、開口を物理的に閉ざすという
明快な目的がある。そして扉には、その「閉ざすための手段」としての質が求められてきた。対して暖簾のような象徴的な結界や、紙のスクリーンによる仮設的な仕切りに馴染んでいた日本人にとって、扉の物理的な性能が目的となりにくかったのではないかと思う。
それはさておき、現にどこの家にもある日本の扉の前に立とう。
まず、デザイン上壁と一体となり、扉になりたがっていない建具が目に付くのは文化的な背景に拠るところが多い。従ってその手の建具では重さや抵抗感のような「建具の存在感」をなるべく感じさせないのがマナーだろう。
反対に、扉自体の重量や金物の剛性感など「建具の存在感」を助長する感覚は、扉を扉として受け取る場合の質感要素に欠かせないものと言える。
あるレバーハンドルについて僕が経験した具体的事例を、以前別の場所(※1)で書いたが、一般的にもドアノブやレバーハンドルは見た目以外にも、触ったときの熱の奪われ方で重量感が伝わることがある。触り心地というのは案外微妙なものなのである。
鍵と錠のタッチも扉の印象を変える。非接触式のカードキーが増えてきているが、
鍵を開ける、閉めるという機械的な儀式も捨てがたいものである。
施錠やセキュリティーのデジタル化は時代の趨勢だが、使用上のコンテンツを理由に
ハードウェアの質感が失われてゆくのは寂しいことである。ノスタルジックではない新しい魅力的な「タッチ」が出てきて欲しいと思う。
蝶番はきしむようでは論外だが、先述した、建具を主張しない軽い扉のジャンルでは、軽く動けばあまり質感を問われることがなく、むしろノブやハンドルとのヴィジュアルな関連で選ばれることが多い。反して存在感を主張する扉では耐久性と、狂いのない作動感は蝶番の重要な品質である。
また、現場で施工される扉では部品と同じくらい吊り込みや調整といった人の仕事が影響する。ある現場で経験したことだが、同じ部品を使った同じ扉が調整の結果、別物の様な良いタッチを出したことがあった。絶妙なセッティングの維持には長い期間では度々の調整が必要なのかも知れないが、機械の性能と人的チューニングは切り離せないものなのだと思った。
メンテナンスフリーが是とされる価値観は売り渡しを前提とした「商品」故のものなのである。
これは扉だけの問題ではない。
扉のセッティングでは、作動クレーム回避のためクリアランスや遊びを大きく取る傾向があるが、作り手の処世理由で使い手にとっての良い質感が失われてゆくのも残念なことである。

 

 

アッセンブリー 

 

また、建具と枠を一体にした製品が多く出回ってきている。部品のユニット化と工場生産は時代の方向性に沿ったもので歓迎すべきなのだが、全ての製品が金物や部品の自由なアッセンブリーを拒否して既製品化している現状には疑問を呈したい。
家具メーカー等の生産力を活かせば自由な部品の組み合わせを許す高品質な建築部品を作ることが出来る。いくつかの現場(Chelsea Gardenなど※2)で試すことが出来たが、一般的には一括請負の日本的な建設形態や、住宅を既製品的な商品と考える風潮と相容れないところもある。
必ずしも既製品が良くない訳はないのだが、最終使用者や。最終使用者側に立った設計者が製品のデザインやクォリティーを選べないのでは価値がない。

 

 

感覚性能

 

デザインと並んでタッチが重要な商品価値となるシステムキッチンのスライドレールにはダンパーを持つものが増えた。押された引き出しが閉まる直前で減速し、あたかも自分の意志で閉じるかのようにレールの勾配に沿ってゆっくり閉まるものだ。乱暴に閉められた引き出し内の食器がぶつからないための役割ではあるが、比べるとガチャンと閉まる通常のスライドレールのものが随分がさつに感じてしまう。僅かな手応えの差は随分感覚的な印象を変えるのだ。
同じようなことが照明や冷暖房の効果にも現れている。もちろん器具そのものの緩やかな制御のことだけでなく、建築的な総体としての効果のことである。また物の世界だけではなく空間の印象も、細部の収まりや、シークェンシャルな関連性で大きく印象が変わるものなのだ。
写真に写らない体感された空感と時感の中で僕たちは生きているのである。
そして意識することは少なくても、豊かな空感と時感は優れた質感に支えられている。
このことは受け手としての経験から認識することである。

 

小さな接点ではあるが、建築金物や部品はその具体的な手かがりになる。
写真や仕様書(スペック)に表せない経験的な感覚をQCに長けた生産者や、多くの職業的な設計者は「個人の好み」として片付けたがる傾向があるように思われる。この場合、「個人の好み」は、暗に公正な理由や価値基準がないものという意味で使われている。
はたしてそうなのだろうか?
僕はそうは思わない。逆にある文化や社会の共通の規範が「個人の好み」を作るのだと
考える。外来者にはその差がわからないような地域の食べ物の味に、それぞれがめっぽううるさい地域の人々は、他でもないその地域の食文化が育てたのである。微妙な差違を長年語り合ってきたことで味の規範は保存されてきたのだとも言える。差違の認識は規範を経て価値に結びつくのである。
残念ながら僕たちは、現在の建築の体感性に対する規範を持つには至っていないようである。
大きな作り手たちの声、つまり建設業者やハウスメーカー、建築デザイナーたちの言説に比べ、経験的な質感を語る声はあまりにも少なく小さかったからなのである。
具体的な建築の場所で、空感・時感・質感を多くの人々が楽しく、厳しく語り合うことが、住宅を介した「生活の質」を高めるためには欠かせないのである。