Architect

体感される建築

彰国社ディテール 169 2006年夏期号より再構成

都市の時間と場所

夕暮れ時のマンハッタンをヘリコプターから見下ろしたときのことを忘れられない。
明るい青空を背に、夕陽に映えて絵はがきのように輝くクライスラータワーから眼を落とすと、すでに店のネオンサインが灯った夜の街をヘッドライトを点灯た車がうごめいている。
ここは都市だ、と思った。
昼と夜が混在し、スカイラインをくっきりと形作る高層建築の様々な形態は、夜の街路を歩く人々には無関心な一塊りの風景を作っている。都市には様々な時間と場所が同時に存在していることを改めて実感した。
混在する様々な時間と場所には様々な人々がいる。そしてそれぞれの時間と場所にそれぞれの人の行為が重ねられている。
東京の街を歩いていてふと思うことがある。今私たちの廻りにある空間はどんなもので作られているのだろうか。建物、サイン、街路、自動車、大量の商品、群衆、騒音、臭い、気象、等々数え切れない無関係なフラグメントが身の回りを占めている。
改めて認識する機会も無いが、それらの無関係な要素の共存が都市の空間体験を作り出しているのである。

 

 

建築はどこに現れるのか

 

建築はそれぞれ建てられるが、僕たちはそれらの建築を唯一無二の空間として体験はしない。住宅や駅、事務所庁舎等のあらゆる建築を通過しながら生活しているからだ。
だから受け手、つまり普通の生活者にとっては一個の建築もその人の時間と環境の一部を成するに過ぎないのだ。建築は都市を生きる様々な人の様々な時間と場所の中に断片的に現れる。建築もまた都市の無関係な共存から逃れて独り立ちすることは出来ないように見える。

 

 

受け手から建築を考える

 

多くのひとは建築を作品や計画された特別な施設と考えている。つまり建築を作家や計画者の表現あるいは意図として、ひとはその鑑賞者か使用者つまり読み手として役割分担されたものとして建築を受け止めているのである。
それに対して、建築を受け手の行為や行為に対する様々な場所を作り出す施設か環境として理解しようとする試みも目に付き始めている。人の連続する行為や空間体験の
インタラクティブな関わりから建築を考えようと言う試みだ。
物を媒介として行為や場所や機能の触発を考える、という方法でもある。そこに人が係わる(参加する)ことで見つかる空間体験や使用から建築を考える、ある種の参加型建築とも言えるのかもしれない。

 

 

それぞれの現場

 

そのような視点から建築及び建築の一部分を考えるとき「現場」という言葉がひとつの手がかりになるように思われる。現場は建設現場に限らず、生活や仕事の現場、つまり係わる人がリアリティーを持てる関係が成立する場所が現場である。現場の成立条件は人の側にある。
従って体感される空間は建築として自己完結していない。建築体験の現場は人の行為や様々な物、環境の関係性の中に現れるものなのだろうと思う。
そして、人を媒介にした物と場所の作る空間に、もはや建築と施設の境界線は見えない、あたかも現代の都市にその境界線が見えないように。

 

 

時感と空感

 

人が空間を体感するとき、人は必ず移動や視点の変化などの行為に伴う時間的な経験を伴っている。その逆も同じで、時間的な経験には空間的体験が影響している。また、それだけではなく温度や音などの目に見えないファクターも体感する空間感覚に大きな影響を与えている。
経験された空間や時間の感覚を空感と時感、と書き直してみる。

 

 

行為とデザイン

 

武術やスポーツには、道具と人が一対の系として働き、集団や個人の空間を作り出している例を見ることが出来る。
建築にあっても、例えば茶室の空間は意味性や人の立ち居振る舞いと切り離しては考えられない。人の行為と係わる中で優れた効果をあげることの出来る優れたデザインは、行為を通して改めて人と物の系が作る働きを教えてくれる。
シトロエンCXのドアハンドルは、ピストルを撃つような指使いを要求することで、自然な姿勢でのドアの保持とロックのリリースを同時におこなうことを可能にしている。 (INAX BOOKLET建築金物に収録の高橋真「ハードウェアの機能と快楽」参照)
身体と物とのインタラクティブなデザインは建築と道具の境界線を消してゆくかのようにも思われる。

 

 

マテリアルvsテクスチャー 

 

そして、インタラクティブな人と物の間には機能的関係だけではなくフェティッシュな意味での質感が現れてくる。
「物」と「質感」は異なるものだ。質感は恐らく「空感」を作る表層のテクスチャーとも呼べる物だ。しかし表層のテクスチャーががマテリアルの実感を伝えることも事実である。質感は想像力に働きかけ空感をより豊かなものする。しかしそれらを視覚的な側面だけで評価すれば、良くも悪しくもフェイクと隣り合わせの表層に留まることになる。より豊かな空感は、質感に対する作り手の技術のみならず読み手のリトラシーや想像力に負うところも多いように思えるのだ。

 

 

マテリアル感覚

 

様々な質感を持つ「物」が見た人の想像力、または感性に訴えて引き起こす感覚は質感とは異なるものだ。「マテリアル感覚」はそのような体感された物の印象、のことを質感や素材(ルビ マテリアル)と区別するために付けた名称だ。われわれが日常的に接しているほとんどの空間は均質な工業製品で被われている。そのような均質な表層は人にマテリアル感覚を引き起こすことはない、質感もまた表層の伝える感覚に過ぎないが、それが人の感性や想像力に触れることでマテリアル感覚は作られる。そのようなインタラクティブな人と物の関係は、素材そのものではなく、素材に加えられた表現に仕組まれているようである。
その点でマテリアル感覚を伝えうる表現はアートの一般化とも言えるものだ。そのような表現そのものによって成り立つ表現には本物と偽物、正しい、または誤った用法の区別などもはや存在し得ないのである。

 

 

建築という現象へ

 

無関係な物や人が混在する都市は再び整理された風景に戻ることはないように思える。
建築も恐らくその個体性を失ってゆくものと思われる。それは建築の衰退や混乱かと言えば、そうとは思えない。
インターネットや通信の普及が放送という一方的な手段を解体して行く状況と同じことが建築の現場にも起こりはじめいてるようにも見えるのである。
配信者と受信者の区別はだんだん希薄になるように、建物は建設されただけでは建築になり得ない時代が来るのだろうか。

建築も建設された物であることに留まらず、物とそれがもたらす現象の広がりの中へと広がりつつあるように見えるのである。