Architect

休暇 で考えたこと

1987年頃TAKEO KIKUCHIのPR誌に掲載

絵葉書が切り取られた風景である様に、休暇は切り取られた時間である。スケジュール表に書き込まれた不在のスケジュールだ。単なる休日や余暇とは違う。
期限があること、公認されていること。これらは休暇の基本的な条件だ。
期限のない休暇だったら、これは大変だ!非公認の休暇は、子供の頃のズル休みを思い出して一寸得をした様な気分になるものだが、結構損をする場合も少くない、時として非公認の休暇は期限のない休暇に結び付くこともあるらしい。
自分で取ること、これも休暇の条件だろうと思う、他人に押し付けられた休暇は時には「おひまを出される」とかいって余り歓迎されないことが多い。
いずれにせよ休暇という言葉の大人びたニュアンスには、自立した社会人のプライベートタイム、とでもいう様な響きがある。余暇や休日ではないこの休暇に私的に素敵な自分の時間と空間を作り出してみよう。
働いているとき、僕達は自分の時間や個人的な空間の体験を忘れがちだ、物ならば街中に溢れているけれど、時間や空間はどこかにあるというものではない。
人間の体や意識に密着した私的な空間は、人が物や建築の空間と交感するときに生ずるものなのだ。  そんな私的でリアルな空間は長い間忘れられていた。
かつては、まあ今もそうだけれど、私的な時間と空間を取りもどすはずの休暇が、余暇のレクリエーションや全く個人的じゃないレジャーやアミューズメントに駆逐されていた。けれども最近は自分の体とか意識など極めて私的なところから自分の時間と空間を取りもどすことをし始めた人々もいる。
空間は「在る」ものじゃなく「生じる」もので時間は「来る」ものではなく「動かす」ものだと言うことが思い出され始めている。
ほとんど水平方向ばかりしか見なかったまなざしを上下に動かして見る、そんなことからでも自分の空間は変えられるのだ。
自分の空間としてのインテリアや家具、建築などにも関心が向けられている。流行りの知識や使い捨ての趣味として終わってほしくないと思う。 
同じ窓の連続する高層オフィスや、そんなものが立ち並んだ街は灰色の服とカタガキの置き場所だ、人や物の位置を区分けするだけで生きた空間は作り出さない。そんなモノトーンのビルが立ち並ぶ街や、在る種の退屈な学校や病院等のスタイルは近代建築の産物なのだとよく言われる。
僕はモダニズムと呼ばれる思想やスタイルに大変共感をもっているので弁解させてもらえば、それは正しくはない。
今街中をうめつくしている、結果として近代的と呼ばれている建物の多くは今世紀の始めにヨーロッパのアバンギャルド達から生まれ全世界に広がっていった建築スタイルの正当な後継者ではなく、世の中の都合にあわせて飾られた不毛の構造物といってもよいものだ。
「氏より育ち」と言うが、20年代のモダーンスタイルを産み出した「氏」とも言えるコルビジェやミースの建築あるいはモンドリアンの絵画であってさえ決して冷たくも、まして単調でなどではありえない。僕は個人的には快楽主義的でさえあると思っている。しかしその後の効率だけを求める社会が単純を単調に、合理主義を功利主義に都合良く読み換えて粗製乱造に努めた結果、街を退屈にしてしまったのだ。言わば育ちが悪かった。もちろんそれを育てた社会のなかには建築家もいたのだけれど。
もともと20世紀の建築は空気の入れ物としての空間を持つようなものではない。人が歩き、立ち止り、横たわり、見つめることなどを通して人の体や意識と響き合って空間を生じさせる道具か機械のようなものではなかったかと僕は考えている。
その道具も昔はミシンやこうもりがさのように分かりやすい物だったものが今ではコンピューターやビデオなどを詰め込んだ曖昧な箱になっている。
20年代の、機械をオブジェとした感性から遠いところに僕達はいる。
20世紀を代表するような建築作品のなかには、別荘やリゾートハウスのような、言わば休暇の為の建築、とでも言うような物が少なからず在る。
実用的な物に比べて制約条件が緩い、という様な訳もあるけれど、仕事や日々のルーティンワークから離れて、生身の体で自然や家族や親しい友人達と付き合う休暇の為の建築こそ、人と物と、自然環境などとの本質的なかかわりが造形のなかに現われるのではないだろうか。
パリ郊外にコルビジェの設計したサヴォア邸という建築がある。そこは空間をよぎる動きを導くスロープや軽々と配置された光と影の造形に満ちている。スカイライトから光のこぼれるバスルームに、ぺったりと横たわった体をなぞった様な台がある、建築を第2の自然であるかの様に考えられている風にも見え、理想主義的なその空間は健康的で美しい体と感性を持った人間を要求している。身体と物の交感はダイレクトでセクシーだ。しかしそんな白いユートピアは、今ではすでに見つからない。
かわりに僕達には騒音とジャンクが溢れ、空気中には電波がきっしり詰まっているビックリ箱のような都市が与えられている。その中で僕達は未だ時間や空気を切り取る確かな方法を見つけていない。
自分の意識と身体をセンサーにして街に出てみよう、関わり合いからしか空間は生まれない。もしかすると都市のフラグメントの彼方に私的で素敵な自分の空間を作り出すことが出来るかもしれないのだから。