Architect

「ピーターライス自伝」書評「肉体化した知性」

住宅特集97年 4月

ピーター・ライスの業績について語るには、あまり多くの言葉を費やす必要はないだろう。
何人かの有能な建築家達との仕事の軌跡が20世紀後半の記念碑ともいえる建築物として世界中に残されている。そこを訪れてその場に身を置き、物と架構によってつくられる空間に触れ、それを通して彼の仕事を考える以上のことは出来ないからだ。
そして、その仕事がこの先増え続けることを見ることが出来なくなってしまったことは、建築や構造の設計にたずさわる人々のみならず、彼と同時代を生きるすべての人にとって、本当に大きな損失となった。
60歳を待たずにこの世を去ったピーター・ライスは、脳腫瘍による死を予感したときに、初めて自らの生い立ちと、仕事を通じて考えてきたことをまとめ始める。そして残された最後の時間を使い、自伝のかたちを借りて書き上げられたのが 「ピーター・ライス自伝」あるエンジニアが夢みたこと(An Engeneer Imagins)である。
まず個人的な感想から延べたいと思う。エクサイティングな気持ちで一気に読み終え、僕は少なからず感動し、元気づけられた。この小評に目を止めて頂いたすべての方々に一読を御薦めしたい。良い本である。いや、良い人なのである。彼は。
個々の仕事の興味深いエピソードや、技術的な説明な内容は、物語としてもとても面白いが、それについては本文以上のものは伝えられないのでここでは触れない。
むしろ、ここで触れておきたいのは、行間から伝わってくる彼のヒューマニティである。
多くの人に愛された彼の人格や、多様な人間的側面、特に、ものを作る人としてのフランクで誠実な態度は素晴しい。
彼は、一個の人間として考え、常に革新的でなければならない(この言葉を建築家にとっての創造的であることと等価のものとしてライスは語る)人間の仕事として、エンジニアリングに取り組み続けた。その姿勢は、彼と供に建築や技術の仕事に関わった幾多の人々の共感を呼び、真に高度で豊かな結果をつくりだす大きな要因のひとつともなっていたように思ええる。
これはまたこの本の前後に文を寄せている人々によっても大事そうに語られているが、なかでも特に気に入ったのは、序文でフランク・ステラが書いている、「彼の側にいるだけで、誰もがものを考えたくなる。それもできるかぎり知恵を絞って考えたくなるのだ。」と言う一節だ。どんなに世の中が発達しようとも、ものを考えるということは人間の基本的な行いだ。この基本的な行いに対してライスはきわめてナイーブで誠実なのだ。希望をもって考え、新しくあり続けることに。
本文中でピーター・ライスは繰り返し革新的でチャレンジングであり続けるべきであることを語っている。革新的なことはピーター・ライスの言葉を借りれば、「世界中の現場で毎日100回は起こっていること」なのだ。それは彼にとって決して新奇なことを意味しない。たとえわずかでも、物を作る人が教義的な知識や、技術的ルーティンワークを抜け出して本質的に考え、事態を前に進めて解決を計ったならば、その革新性は人間の仕事となる。
優れたエンジニアとして彼をひときわ際立たせるものは、技術を決して産業のアプリケーションと考えることなく、常に少しでも事物を前向きに進めなければならない義務を背負った人間の仕事と信じて努力を惜しまないその姿勢にも現われている。
この程度で充分、と豊富な産業のリファレンスブックから安易な解答を引用することなく、わずかなチャンスに対しても革新性への希望をもって考え続ける彼の行くてには、われわれが見失っている「神」の姿が見えるのだろうか。
いやいや、そんな重苦しいものではないかもしれない。付記のなかでピーターライスは彼自人のことを、キツネを追う猟犬に例えている。地面すれすれに鼻をつけ、獲物の軌跡のみを追いかけているので自分がどこに向かっているのかわからない、と彼はいう。
素晴しい比喩ではないか、僕たちは周り近所をキョロキョロするあまり、鼻を地面から遠ざけてキツネを見失ったことも忘れて、出っくわしたネズミに居丈高にかぶりつく犬となってはいないか?
また、 自由とは知的なものでなく、肉体的なものだった。 と書き出した文章で、彼は一時の数学に対する思いを語り始める。「もし、自由というものがあるのなら、それはすばらしいアイディアがいかなる境界をも超えて探索される数学のなかにあった。」 そして、ガロワに対する「ひどい嫉み」を隠さない。ライスもまた、神々に愛された人、ではあったがまた、人々に愛された人でもあった。その愛が、わずかに長く彼を地上に引き留めたのだ。
さほどに、数学と物のエンジニアリングは彼にとって肉体化したものであったのだ。
ライスの仕事が人に与える豊かさと気持ちの良さは、肉体化した知性によって支えられている。話題がライス個人の資質や、ヒューマニティに片寄ってしまったが、エンジニアとしてのライスを語るとき、われわれは、社会のなかで建築物を作る方法について言及せねばならない。職人、あるいは技能労働者の職能について、建設技術と建設産業について、そして設計者としての技術者と建築家の役割等についてである。
矛盾したようにも思えるが、建設産業が施工技術の成果としてクォリティを売りものにし始めるとき、職人レベルでのスキルは落ちる。同じように設計者が、建築産業の成果
品のみを目指したとき、建築家は自ら商品(ブランド付の高級品ばかりではない)となり、技術者は商品の管理人となるのである。ここで考えておきたいことは、建設の施工においても設計においても、商品はそれ自体では何の価値も持ちえないと言うことだ。貨幣(または等価の記号)と交換されることこそがその価値である。交換価値以外の特定の価値、たとえば固有性や特定の場所や物に対する執着心などは、マネーゲームの重大な障害になる。それ自体が目標となる、物に表わされた人の仕事は、ネット上の記号のやり取りのみによる、ビル・ゲイツの言うゼロ・コンフリクト・キャピタリズム、の世界では無用の長物となる。
日本の、おそらく世界の建設産業の発展は、技術というの名のもとに、職人社会や現場固有の解決方法、特殊な技術的解決方、特殊な設計などを退けてきた。
均質化は技術と品質(クォリティ)を記号化することによって経済的なコンフリクションを軽減し、それにより建設産業は今日の発展を得るのである。
建設という行為は、その産業社会から逃れることは出来ないが、また現場や固有の問題解決から逃れるこも出来ない。
ここで目的のために結集する個人の価値観が問われる。
それ自体の完成(竣工のことではない)を目標として有能な個々の職能人が、それぞれのスキルと能力を絞りだし固有の現場、固有の解決のためにポジションを分かち合って働いたなら、どんなに素晴しい価値が生まれるか。ピーター・ライスは、幾つかの建築物と少しの言葉を持って大きな示唆を残していったのである。