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4輪と2輪

2006年8月

車とバイクの違いってご存じですか?
車にはタイヤが4つ付いていてオートバイには2つしかない、というように見ればわかる当たり前の差は歴然としていますのでそういうことではありません。
道具としての目的の違いのことです。
形や使い勝手の差だけではなく、人が移動する時に使う道具、つまり同じ乗り物として見ても機械の側の目的が明らかに違うのです。
機械自体は目的も何も持ちませんから、機械を作る人がその設計に込めた意志の差と言えば良いのでしょうか。この場合の差は、個別の設計意図以前の車両としての根元的な目的の差のことです。
それを僕はこのようなことだと考えています。

「自動車は何かを運ぶための道具であるのに対し、自動二輪車は自らが移動するための道具である。」

動詞で比べると、移動させる、と、移動する、の差があると考えられます。
主格はそれらを利用する人のことです。オートバイの場合は必ず運転者ですが、自動車の場合は乗客であることもあります。
自動車を俺一人で運転してどこかに行く場合はどうなんだ、と思われる方もいると思います。その場合でも「俺」(主格)が「俺」(目的格)を運んでいるのです。
運転する俺が、車に載せている同一の俺を運ぶのです。自分を載せた御神輿を自分で担ぐという奇妙なことが、車を運転するということなのです。
車にはもともと社会的な側面があって、奇妙な階級制度やステータス性が介在するのはそのためです。そのことは後で書きますが、そのような社会性とは別にスポーツとしてみた場合にも、運ぶ走るの差が言えそうです。
オートバイレースの世界チャンピオン、ヴァレンティーノ・ロッシは、彼の体験からその差について語っています。
ヴァレンティーノ・ロッシはイタリア人の天才的なライダーで、500ccのときから:現在のMotoGPにわたって最高峰クラスを5連覇しています。しかもそれは3勝をホンダで、2勝をヤマハでと2チームにまたがって作った記録です。4輪の運転も好きな彼は、ラリー選手権に部分的に出場したりしていますが、昨年、フェラーリのオファーを受けてF-1マシンのテストをしたことがありました。フェラーリのトップドライバーでシリーズ優勝7回という奇跡的な
記録を持つミヒャエル・シューマッハーに僅か1秒遅れで走ったそうです。
その結果ロッシはGPライダー兼F-1パイロットという選択肢をせまられますが、結局2輪レースに専念することになりました。以下はそのことに触れてロッシがヤマハのホームページに書いているコラムからの抜粋です。

二輪では、スタートからフィニッシュまで、バイクとライダーだけがレースの全てなんだ。
これは二輪の特色の中でも僕が一番気に入っている点さ。
これに対してF1のレースでは、その他にもレースを左右するファクターがたくさんある。
そしてドライバー以外にも、そのファクターを考慮し決断する立場の人間がたくさん存在するんだ。

マシンを使ってライダーがゴールを目指して走る2輪のレースに対して、マシンだけに留まらぬ総力を挙げてパイロットをゴールまで運ぶ4輪のレースという差が明快に語られています。
レースとなれば、人も機械も町中を走っているものとは別物ですが、車両に託した根元的な目的は日常的な自動車や自動二輪車と変わりません。
ライダーは自ら走ってゴールを目指すのですが、F-1パイロットは運転という仕事を通して、チームの象徴である「自分」をゴールまで運ぶのです。
社会的乗り物の自動車は、馬車から発展してきたと言われています。
運転は御者に任せ、自分を運ばせるのです。それに対して恐らくオートバイは自転車の発展形なのでしょう。自分ひとりが動くための道具でした。行為のエクステンションとも言えるものでした。
そんな生い立ちの差か、動く機械としてだけでなく、社会的な乗り物として、自動車はオートバイと異なる独自の発展を遂げて来ました。
「何かを」、あるいは「誰かを」運ぶというその目的の部分です。自動車の発展はその目的の肥大化だったと行っても過言ではありません。
荷物や土砂を運ぶトラックと乗用車が分岐したことは言うまでもありません。また、同じ人の乗る車でも、乗り合いバスと乗用車は異なる形に分かれてきました。人と物、多量と少量などの現実的な分節の上に立って、更に乗用車だけの区分の中にもファミリーカーやスポーツカー、などのカテゴリーが成立しています。家族や荷物の積載量や使い勝手の多様性についての話題は自動車特有のものなのです。
一人で荷物も持たずに使う場合でも、自動車はオートバイとは異なっています。自分で自分を運ぶ乗り物だからです。
自分で自分を運ぶとはどういうことなのでしょうか。
運ばれる自分とはある「人格」を持っているということが言えます。
「社長」であったり「ママ」であったり「普通の人」であったりすることです。ですから
ヘルメットやプロテクターで身を固めたりは出来ません。
普通で日常的な人格を運ぶ道具であることが車の条件です。
そして、着る服が何となくその人の社会的立場を物語るように、人は車にも運ばれる人の人格を表現させるようにしてきたのです。それは車だけに特有なことではなく、王様の椅子や、御神輿などが、その上に乗せる人を特化させるための表現として使われてきたことと同じです。
そんな表現が車にはずいぶんポピュラーな形で現れています。
まったく中の見えない真っ黒なベンツに金色の菊の御紋でも付いていたら、何となく避けて通りたくなりますよね。
セグメント設定と呼ばれるメーカーの意図的な販売戦略が、「運ばれる人」のカテゴリーを自動車のデザインや商品性に反映させてきた歴史もあります。
しかしオートバイにはそのような階級制や社会的人格性の投影は希薄です。
行為によっては社会的人格を問われますが、ただ走っている限りバイクに乗る人は誰であろうと「ただの人」に留まります。
それに対して、何を運ぶのかが大事な自動車では、運んでいるものが「荷物」なのか
「えらい人」なのかわからないようでは困るのです。
車自体にステータスやファッション性が介在する大きな理由はそこにあると思います。
オートバイにもファッション的な側面は大きいのですが、どちらかというと人の側で評価されることが車の場合と異なっていると思います。
車もバイクも「社会性」の話になると拡張しすぎてしまう傾向があるので、その話は止めておきましょう。
あれほど不便で危険な乗り物にもかかわらず、バイクは消え去る気配も見せません。それは目的格の「俺」ではない主格の「俺」の非合理的な目的、あるいは快楽、に根差しているからなのでしょうか。