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輸送のパラダイム(新旧スポーツの差)

2006年6月

見て楽しいスポーツ

正反対の意見の方も大半だと思いますし、どちらも公平に好きな方も多いと思いますから好みの話はまったく個人的なことなのですが。
スポーツの観戦ではF-1やMotoGPのような自動車やオートバイのレース、サッカーなどを観るのが好きです。比べてみると、野球やアメフト、バスケットボール等アメリカ起源のスポーツより僕は楽しめます。
もちろんアメリカにも自動車やオートバイのレースはあるしヨーロッパにもバスケットボールはありますから地域的な好みではありません。
いずれの競技にもスポーツとしてそれ自体の優劣があるとは思いません。
単なる好き嫌いのこととしてあまり考えてもいなかったことなのですが、あるときふと、好き嫌いは別としてそれらのスポーツの差異は、物(あるいは人)の移動のしかたに起因するのではないかと思いつきました。人為的な移動のさせ方、つまり人や物の運び方にです。

得点法

僕が好きなもののグループはより単純な方だと気付きました。決められた時間内にどちらがより多くのタマを敵陣に運び込むか、あるいは一斉にスタートしてある決められた道のりを、機械を使って走り、誰が最初にゴールにたどり着くかで勝負が決まります。運ぶ、走る、つまるところただそれだけです。
対して、野球は複雑です。攻守を交代しながら3つ与えられたアウトを失うまでに得点し、9回までにどちらが多く得点するかで勝負が決まります。
この場合ボールはゲームを進行する為の道具で、得点単位は人です。一人が敵地の堡塁を回って帰ってくれば1点になります。バスケットボールはもう少し簡単ですが、ボールが入ればただ1点のサッカーに比べると、ボールの入り方、つまり方法や位置、によって得点が違います。アメフトはよく知らないのですが、近代の戦争は昔の戦争ほど簡単ではないことを教えられているようです。煩雑さは僕にとっては野球を上回ります。もちろん点の取り方は方法により異なるし、攻守の交代もゲームの展開によって変わるようです。
なにより物差しの上での肉弾戦、という構図が僕には更に難しく見せるのです。
結局いずれのスポーツも人やボールなどの物を運んで得点するゲームなのですが、その運び方と、得点法にヨーロッパ型、つまり古いタイプのスポーツとアメリカ型の近代スポーツにはずいぶん差があると思えるのです。
モータースポーツは新しいスポーツには違いありませんが、機械を使って拡張した徒競走と思えば最も古いタイプのスポーツとも言えるでしょう。

輸送とネットワーク

そこでジークフリード・ギーディオンという人が書いた「機械化の文化史」という本に書いてあるあることを思い出しました。
ギーディオンは近代建築のスポークスマンとしてCIAM(近代建築国際会議)に書記長として参加し「空間・時間・建築」という近代建築のバイブルとも呼ばれた大プロパガンダ(?)を著したひとです。
「機械化の文化史」の一部にアメリカの都市化が急速に進む中で、市場と食肉加工場
(屠殺場)と郊外の牧場をいかに効率よくつなぐか、という問題が扱われています。冷凍倉庫が出来てその構図は大きく変わるのですが、その前の時代の問題です。そこでギーディオンは次のような主旨のことを書いています。
ヨーロッパに於いては輸送と通信の速度は国を維持する、あるいは他国を制覇する上で重大な要件であったが、新大陸の人々には鉄道と電信という手段がすでに公平に用意されていた、というものだったと思います。
つまり、当時最速で最も効率の高い輸送機関と通信手段はすでに用意されており、国を制覇する、この場合は経済的な成功を収める、ということは速度そのものでは差が付かなかったということなのです。
そして、それら通信や輸送のネットワークの構築、需要や供給に対応した対応が経済的な成功を収めるものとそうでないものを分けたというのです。
その説明はあくまで食肉流通の話なのですが、アメリカ起源のスポーツを理解する上で大きな助けになると思いませんか?

ロジステクスと戦略

古い世界ではより速く兵を送り込みより早く国の旗を掲げたものが勝ち、マラソンの故事を出すまでもなく、戦況をより早く知った方が有利でした。
対して新しい世界では戦線をネットワークして作戦を立て、より効率的な成果を得たものが勝つのです。味方の犠牲を減らしながら得点を増やす戦いです。
ある種のスポーツは戦争のシュミレーションとも言えます。
戦争ゲームとして見れば古代と近代に生まれたスポーツには大きな差があって当然です。
経済戦争と呼ばれるお金の争いも範疇に含めればより明確です。
戦略の結果の得点は、どんな方法にに対しても同じ1点ではなく、確率やリスクに対して異なるリターンを得るべきだというのが近代の発想なのです。
輸送という手段を考えてみたとき、ただ早く運べばよいという古いタイプのスポーツに対して、新しいタイプではネットワークの中で目的(得点=収入)に対していかに効率よくものを運ぶかが問われていたのです。
スポーツもまた社会を映す鏡だったのです。
ゆっくり走る車の横を200キロを超えるスピードで巨大なメルセデスが走り抜けてゆく速度差の大きいドイツのアウトバーンと比べて、アメリカのフリーウェイでは巨大な川の流れのように大量の車が大きな速度差無く流れてゆきます。自動車や道に対しての考え方にも同じような差があるのかもしれません。
個別の速度の時代から、集団の効率の時代へと物の運び方は確実にシフトされて来ているのだと思います。
とはいえ僕はやはり古いタイプのスポーツを観るのが好きなことに変わりはないのですが。