Architect

車に着せる服(2つのエコ・プロジェクト)の補足

2006年7月

服の話に付随して、ボディーについての話しを書いておきたいと思います。
ほとんどの自動車のボディーは鋼板で出来ています。スチールモノコックボディによって自動車は画期的な発展を遂げました。シャシー(車台)と呼ばれるフレームにエンジンやサスペンションを取り付け、その上に上屋を組んで人や荷物のスペースとして使っていたのがそれ以前の自動車でした。
モノコック構造により、自動車は軽量で頑丈、比較的安価で空力的にも優れた20世紀を代表するような商品となり産業を支えてきました。
表に出た構造体、スチールモノコックボディは流れるような曲面とつるつるの表面をその商品性の証として手に入れたのです。
錆は単に表面の劣化だけでなく構造体の劣化をも意味しますから大変嫌われます。水をはじき、汚れを寄せ付けない堅牢な仕上げが必要とされていました。
その結果すべての自動車のボディーは、熱伝導率が高く保水性のない塗装された鉄板の表面を持つことになりました。
そうして発展してきた自動車ですから、あまり汚れているのは世間体が悪く見えますし、少しでも傷が付いたら直さなくては、と考えているるひとも数多くいます。つるつるの表面は傷が目立つのです。
都市や都市近郊で生活のために実用的に使う自動車なら少し柔らかくてテクスチャーに富んだ傷つきにくいものの方が向いているようにも思えます。
ゴム状の柔らかい自動車やウナギのようにぬるぬるの自動車、毛皮やデニムのような布地、木製などの車があってもよさそうです。
しかし長年作られてきた自動車の「商品性」という暗黙の了解が、企業によけいなことを考えないようにさせてきたのだと思います。
なにしろ、様々な法や制度にも組み込まれている巨大産業ですから大変保守的です。既定の商品性という神話は触りがたいもののように考えているようです。
けれども現実を見てみれば、日本の車のデザインに関する限り「商品性の神話」、はすでに崩壊を始めているとしか思えません。
アニメキャラクターやCGのデザインイメージを、そのまま物に移し替えただけのような車が目につきます。市場も大型車に対して軽自動車やコンパクトカーが売り上げを伸ばしているなど、自動車は、すでに独自の商品体系を外れた「一般家裁道具」になりつつある兆しが見えてきています。
そして、自動車産業は、言うまでもなく石油燃料の明るくない未来と、世界環境の温暖化に対処しなければならない、という大きな転換期にさしかかっています。僕は、一人の車好きとして、もはや20世紀文化とも言えるまでに成長した自動車産業が、文化の継承者として優れた機械を作り続けてほしい、という希望はもっています。しかし同時に生活道具としての自動車は、内容も制度も含めて大きく変わるべきなのではないかとも考えています。
一足飛びに、産業のパラダイムシフトを提案してもあまり意味があるとは思えません。
そこで個別にも始められるサブカルチャー的な方法を思いつきました。
それが車に着せる服でした。
車に服を着せるなんて大っ嫌いな発想でした。古今東西カバーをかける、という発想で美しいものを見たことがないからです。この場合のカバーというのは古くは家庭の電話機、自動車のシートなど大事な物が汚れないように覆うという発想です。自動車はそれ自体商品として完成された外観を持って売られているものですから、商品性を表すボディを隠す必要なんて本来ないはずです。
けれども僕が仕事にしている建築の世界では、構造体と仕上げ、は別々で当然です。時折美しい構造体をそのまま表して表現された素晴らしい建築を目にすることもありますが、重力や地震の力に耐える構造体と、風雨や日照に耐える外装材は異なる目的に対処する異なる部材と考えるのが普通の考え方です。
自動車も古くは車台と架装は分かれていましたが、現在はモノコックボディの登場により一体の金属ボディが一般的です。(現在もトラックやバスは別です) けれども生産効率の向上や構造解析の進歩により、現代の自動車は人が使うかなりの部分を非構造材に出来るようなのです。
新しい技術で自動車を再構成して古い時代の考え方をまた取り戻してもよさそうに思えます。実際現在ファミリーカーの主流となっている「走る押入」のような実用車には、かつて自動車の持っていたステイタスや機械に対するロマンティシズムのかけらもありません。
ならば もっとプラグマティズムに徹して、環境や、使う人の生活の一部として考える時期だと僕は思います。
逆に言えば、すでに一部の車のデザインはあってもなくてもよいくらいどうでもいいものになっているので、メタ-デザインとしてそれを覆い隠して、違う価値を持った世界に開いてゆく、という考えが成り立つのではないかとも思えるのです。