Architect

旅のコンセプト

2006年6月

20代の終わりから30代の始めの時期は妻と二人でドイツにいました。
ケルンに住んでいて、僕はゴットフリート ベームという建築家の事務所に勤め、妻は
音楽大学の作曲科に在籍していました。
ベルギーとの国境に近いケルンは、フランスにも近く、金曜日に仕事が終わってから家を出て、週末をバリで過ごして日曜の夕食は家で、いう小旅行にはしばしば出かけました。イタリアへも暇を見つけては行きました。車のこともありましたし寝台車で行くこともありました。
それらの旅は、建築を見たり、美術館に行ったり、食べ物を食べたり、買い物をしたりする普通の旅行です。取りたてて旅そのものにテーマを求めたりはしませんでした。
しかし、ドイツにいる間に是非行ってみたい都市がいくつかあり、それらの都市への旅行に際してあるコンセプトを立てていました。
それらの都市というのは、北はヘルシンキから、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ソフィアなどを経て、南はイスタンブールに至る都市のことでした。いったいどんなコンセプトだったのでしょう。

当時はまだソビエト・ユニオンが健在で、ヨーロッパは西と東に分けられていました。
無論ベルリンの壁も市内に大きく立ちはだかっていました。
それらの都市のいくつかは東側に属していましたので、西側に偏った目には、ヨーロッパのはずれのようにも見えていました。
けれどもそれらの都市は東ローマ帝国、神聖ローマ帝国へと移る衰亡の歴史の中では
ヨーロッパの中心的な都市でもありました。
僕たちが旅行に行った時点ではウィーンやブダペストなどの街は、むしろ東側と西側の接点とも呼ばれる街でもありました。
まずひとつには東西ヨーロッパの接点、というイメージがありました。
また、もうひとつの理由は近代初期への文化的関心でした。
19世紀から20世紀の初頭にかけてのモダニズムの成立期に、少なからぬ数の芸術家や作家、作曲家や数学者などが20世紀の後政治的に半東側に組み込まれた都市から生まれていることにちょっと引っかかりがあったのです。
確たる理由があるわけではなく、東側、というヴェールが何かそこにミステリーがありそうに思わせたのです。
そして、直接のきっかけは70年代後半にポンピドーセンターが立て続けに送り出した
二都市企画展でした。パリ・ニューヨーク、パリ・ベルリン、と続き、79年にパリ・
モスクワへと至る20世紀美術を都市間の関連で同時代的に見るという展覧会でした。僕は その展覧会を見てはいなかったのですが、多くの美術雑誌や本で扱われていて知っていました。
その影響か、20世紀のヨーロッパには、ベルリンを中心としてパリとモスクワを結ぶ水平(東西)の軸が何となく先入観として与えられていたのです。
そして、次のようなことを思いつきました。
パリとモスクワを結ぶ水平(緯度方向)の軸に対してベルリンを中心に垂直(経度方向)の軸を仮定する。20世紀モダニズムの時間を共にする関わりが水平軸の都市にあるならば、生成期の歴史的な役割は垂直軸の都市の関わりに負うところが大きいのではないか? というものです。
垂直軸の都市というのは前に述べた都市のでことす。
事実、それらの都市の出身者達がモダニズムの生成期に大きな役割を果たしているということは知っていましたが、パリやチューリッヒなどの都市の人の果たした役割は無視するのですから公平とは言えません。その上それらの都市は垂直に並んでいるわけではないので、話の上でのイメージに過ぎません。
しかし、架空の座標を作る、「パリ・モスクワ」モダニズムラインへの観念的な直交軸、という思いつきはちょっと魅力的でした。
原点となるベルリンはまだ4カ国統治の下にあり、座標原点の中の都市にも入れ子になった座標軸の4分割が繰り返されるという座標の二重構造です。
そこで東西文化の接線とも言える垂直軸の南北の両端部に、東洋と西洋の接点とも言えるイスタンブールと、西洋にありながら民族的に東洋と通底するフン族の国、フィンランドのヘルシンキを加えて旅の目的地を決めました。
それらの都市を、もちろん何度かに分けて訪れました。バウハウスのあったデッサウにも立ち寄りました。壮大なコンセプトの割には、建物を見たり食事をしたりの普通の旅です。学究的な根拠もなく個人的な楽しみのために作った旅のコンセプトですからそれでよいのです。
様々に異なる文化や時間の堆積をそれぞれの街の通りや路地で見つけましたし、政治的経済的な寒さを感じたりもしました。
けれども訪れたそれらの街は、歴史の中では都市は国家に先立つものだ、と想わせられる本当に魅力的な都市ばかりでした。