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加齢のマトリクス

2006年8月

美術家・中山公男の「西洋の誘惑」という著書に、日本的な教養主義で偽装された無秩序な価値観、への批判と共にラファエルロの絵画を通して西洋的な青春の理念に触れた部分があります。そこに書かれた「なぜか、私たちの文化は青春を知らない。」との下りを読んで思うことがありました。著述の内容とは別に、僕がその言葉から考えさせられたものは、日本的な歳のとり方、についてです。

加齢と成長

「青春ドラマ」をはじめ街に溢れかえっている「青春もの」の大半は「若年層」向きに作られた物語や娯楽作品です。ありきたりのイメージは与えられても、日本の文化的理想や理念が描かれているものとは思えません。
「青春」というモティーフを一口には語れませんが、若さや子供が大人になる過程で体験する感覚的、精神的なものを扱った作品のことだと考えています。
氾濫する通俗的な青春イメージとはうらはらに、日本の文化が「青春」を理想や理念として形あるものに残して来なかったとすれば、それが正統なものとして評価されていなかった、ということなのだと思います。
個体の内的な変化と自己の獲得、それに伴う安らぎや優しさの経験を理想化し理念化した西洋社会と、日本の社会には隔たりがありそうです。
人間の成長に対する西洋と日本の評価の差がそこに現れているのではないでしょうか。身体の変化と人格の獲得という個体の経験に成長を見る西洋と、帰属する集団の移行によって成長を位置付ける日本の加齢観の差なのだと思います。それが「日本的な歳のとり方」について思ったことでした。
加齢という言葉は成長を意味しません。万人に等しく加えられて行く時間の経過を表しています。その中で社会が人の成長をどのように認識してゆくのかが加齢観だとすれば、成長に対する評価の差こそが加齢観の差であるともいえるでしょう。

世俗集団での居場所

そこで思い付くのが日本の「成人式」という習慣です。様々な部族に大人になるための
イニシエーション(入会式のような通過儀礼)が見られますから、その一種であることは間違いありません。奇妙なのは行政機関が部族的なイニシエーションを率先して執り行っていることと、昨日と今日で個体としては大した成長もない20歳の若者達が、「今日からあなた達は大人です。」と地位ある人に認定されることです。
選挙権や法的な扱いは年齢に拠るわけですから「成人式」での認定はそれとは異なる文化的、部族的な因習から来ています。イニシエーションによる「成人」は共同体での地位のことで、個人的な成長や自我の獲得とは無縁なものです。成人式は子供の集団から大人の集団への移行の儀式なのです。恐らく古来から日本の社会は、個人的内面の成長や自己形成よりも、
共同体内での地位や居場所の移動を加齢の証としてきたのではないのでしょうか。
そう考えてみると、日本には年齢や立場に応じて人を呼ぶ様々な言い方があることにも気付きます。
少し昔なら、童だった子供が小僧さんや若衆と呼ばれ、元服を経て成人します。つまり「人に成る」のです。新しい名前が付くこともありました。女性は成人とは別に嫁や妻になりました。未婚の大人の女性を呼ぶ言葉は「お姉さん」の類(おばさん、お母ちゃん)くらいしか思いつきません。
男は同じように旦那や親父になります。孫があればお爺さんお婆さんですが、それとは別に還暦を迎えれば赤いちゃんちゃんこを着せられて、ご隠居になるわけです。女性の場合はどう呼ばれるのか僕は知りません。
そのように、日本の社会では加齢による人の居場所があらかじめ決められていたようにも思えるのです。一般的な世間、つまり世俗集団では普通に考えられていることのように思えます。現在でも、小児、児童、少年、少女、青年、成年、中年、壮年、老年、などの年代の階級制のような言葉が一般的に使われています。儒教的伝統が根強いことの現れなのでしょう。
年齢による共同体内での立場の枠組み、が加齢のマトリクスです。
加齢のマトリクスにはまっている限り、人は自分の成長や自我について悩まなくても済むのです。「青春」が多分に個体の経験と変化を成長として評価する社会や文化によって認知されているものとすれば、日本の伝統的社会には西洋的な意味での青春という理念は無かったのかもしれません。

 

追記
僕は、「成長」ということが、より良くなる、あるいはより完成に近づくものとしては考えていません。個人とその所属する文化集団との間の加齢変化上の認定や折り合いの付け方、を示す言葉として用いました。従ってその意味するものの中には当然「衰退」という負の成長も含まれていると考えています。