2006年6月
村のような家
僕と家族が住んでいるのは、都内の共同住宅です。もともと僕が生まれ育った親の家のあった場所に建て代えた建物です。その場所には親の家と父の姉に当たる叔母の家があり、それぞれの家族がひとつの土地で暮らしていました。
僕は3人兄弟の長男ですが、同じ土地に住んでいた3人の従姉妹達は皆年上でした。祖父はすでに亡くなっていましたが、祖母はまだ元気で一緒に暮らしており、子供時代は大家族の6人兄弟のように遊んでいました。
父も建築家で、2軒の家はいずれも父が設計したものでした。僕の家はモダーンな木造の平屋で、従姉妹達の家は当時は珍しいRC総ピロティの家でした。実際2階だけの2階建てなので僕はその家を簡単に「2階」と呼んでいました。
そのうち家主姉弟の子供達も家族を持つようになり、家を離れてゆきました。けれども皆が元気で仲の良いうちに土地を分割できるようにしておこう、ということで2軒の家をひとつの共同住宅に建て直しました。
今度は僕が設計しました。
その後、両親や叔母夫婦、従姉妹の家族や僕の家族も住んでいるので、都会のなかの村のような生活です。近郊の田舎に家を建てた妻の親達も、「東京の家」として隣りに住むようになりましたので村の度合いは更に高まりました。
建築を始めるまで
父の職業だったことで建築という分野の仕事があることを子供の頃から知っていました。身近に紙や鉛筆がいつもあり、いつのまにか絵や図を描いて遊ぶようになっていました。
小学校の高学年の頃はよく人力潜水艦の設計図を描いていました。他にも海や砂漠を越えて旅の出来る水陸両用の6輪クルーザーの絵を描いたりしていました。
そんな乗り物や「鉄腕アトム」を作るような科学者か技術者になりたいと当時は思っていました。
「理科」と「図工」が好きな少年でした。
自意識に目覚めた中学生時代は60年代終わりの3年間でした。学生運動や、ベトナム戦争、ヒッピーや街頭イベントなどの時代の動きとサブ・カルチャーの台頭を目撃しながらも参加することは出来ませんでした。
画家かグラフィックデザイナーになりたいと思っていたのはこのころです。
油や水彩だけでなく、ポスターカラーやスクリーントーン、カラス口やエア・ブラシなどのデザイン道具や技法も知り始めました。
いろいろと試してみたくて、フォト・モンタージュやコラージュのような表現や、ペンと水彩のイラストレーションなど、絵ともデザインとなものを描いていました。
具体的な職業を意識していたわけでも素晴らしい作品が作れたわけでもなく、画材や技法が面白くて遊んでいたようなものです。
けれども、技術や美術、科学やデザインすべてを統合した物作りをしたいという気持ちを持ち始めたのは当時のことだったと思います。
そうして、高校生の頃には、建築なら僕が関心を持っていたことあらゆる事を統合できるのではないかと思い始めていました。
いろいろなことに興味がわいて様々な本を読み始めました。建築だけではなく、美術、技術、人文科学、文学など追い立てられるように読みました。
大学で建築を学ぶようになり、課題でまた手を動かせるようになりました。
そこでは工作や画材に親しんでいた経験がずいぶん役に立ちました。
しかし、本は相変わらず読んでいました。設計事務所に就職し速度が一気に、誇張ではなく、百分の一に落ちるまで乱読を続けていました。
家族のこと
設計事務所に勤めていた27歳の時結婚しました。妻の福子は現代音楽の作曲をしています(木原福子)。僕は音楽の素養に乏しかったので、建築と音楽に共通する理論的なこと、現場的なことなどの話を良くしました。
原宿の小さなアパートからドイツのケルンへ越し、千駄ヶ谷のアパートで事務所を初め、現在住んでいる共同住宅を設計して引っ越しました。
現在は妻の福子と娘の伽羅(きゃら)息子の現也(あらや)の4人家族です。
子育ての時期には、妻の両親が住んでいた近郊の家に行き自然に親しむことができました。
そんな場合にはしばしば僕が夕食を作りました。今でも週末は僕が夕食を作ることがよくあります。「男の料理」ではなく普通の料理です。
義父が早く亡くなって以来、義母は「東京の家」で暮らしているので近郊の家は事実上別荘になり、しばらくは家族で大移動を繰り返していました。
時が経って子供達も大きくなりこの頃は一緒に出かける機会も減りました。
子供達はそれぞれ自分のことをし始め、大人だけが家にいることも多くなりました。そのせいか、またひとりで本を読む時間が増えてきたように思えます。